だれかが松葉杖で扉をたたく

結構、嘘つきである。

第三次ブックオフ大戦勃発 いかにして私は大量の書籍と闘ったか。

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いや、実は第三次でもないしブックオフと闘った訳でもないのだが、まあ、景気づけのタイトルである。

定期的に書籍は処分する。言うまでもなく、本は、勝手に増殖する。無機物に見えて、あれは生き物なのだ。ちなみにお金も集まろうとする性質があるんだそうで、書籍も同じ性質を持っていると思われる。

かように本は、増え続ける。だが、部屋のスペースには限りがある。私は、お代官様でも庄屋様でもないのだ。家は狭い。地震が起こって、壁際に積み上げられた本がいっせいに倒れ、例えばぶあつい類語大辞典なんかが頭に落ちてきて首の骨を折って死ぬのは、さすがにいやなのだ。

以前は、本は捨てていた。確か、紙は資源ゴミとして再生されるはずである。頭のおかしいエコロジストやヘイト顔の環境少女もにっこりなのだ。

だが、ゴミ置き場に出したはずの本が、ゴミ収集車が来る前になくなっていることが多いのだ。要するに、誰かが持っていくのである。貧乏な私が、なけなしの金を払って購入し、スペースの関係で泣く泣く捨てようというのに、それを持っていくやつがいるのである。

持っていくのが本好きなら、我慢もしよう。だが、おそらくは古本屋に売るために持っていくのだ。いや、持っていくのではない。盗んでいくのである。資源ゴミ泥棒。空き缶を漁る浅ましい連中と同類なのだ。

もうね、その浅ましい顔を想像するだけで、私などは怒りのあまり勃起してしまう。いや、間違えた。脱糞してしまう。いや、それもおかしいか。

まあ、どっちでもいい。とにかく腹が立つのである。

で、盗られるのはいやだから、ブックオフに電話をして、引き取ってもらったのだ。そしたら、あなた。1000冊くらいあったのに「えーと、8千円ですね」などと言う。「それと、こちらの本は引き取りできません」

引き取り不能の本が、山とあるわけです。もうね、私が「ブックオフにさえ引き取ってもらえないような駄本を買う男」と認定されたような気がして、非情に悔しかった。

で、しばらくはブックオフも使っていなかったのだ。

処分する本をどうしていたかというと、ゴミ出しの時にビリビリと本を破り捨てて、燃えるゴミとして出していたのだ。全然、エコじゃない。環境少女のグレタちゃんに「よくもそんなことを」と罵倒されますよ。

ところが本を破るのも体力がいる。爪の部分を痛めて、血豆ができたりする。

今回、1,000冊以上の廃棄本があったので、さすがに全部を破り捨てるのはムリだと判断し、再びブックオフを呼んだのだ。

そしたら、あなた。

全部引き取ってくれた。数十年前に買った茶色く日焼けした文庫本まで持って行ってくれたのである。おかけで書斎がスッキリだ。実に気持ちがいい。以前、引き取り不可だった本も多数含まれていたのだが、それも含めてすべて持っていった。基準が変わったのだろうか。

金額は、4万3千円だった。まあ、冊数からすれば安いのだが、それでも捨てるつもりだった本である。私からすれば高額で、思わず、いつもは100円の缶コーヒーを買うのだが、その日は130円の自販機で贅沢をしてしまったのである。

ブックオフは買取が安すぎるとか、全部引き取ってもらえないとか、こんにちは!の声がジャマになってゆっくり本を選べないとか、いろいろと不満があったのだが、今回の件で評価を変えた。

捨てるくらいならブックオフ。卑しい資源ゴミ泥棒に持って行かれるくらいならブックオフ。できるだけブックオフで買って、ブックオフに売る。それが今の私の選択である。

※ただし、なんでもかんでもブックオフで売ってはいけない。特にゲーム関係の本なら、とりあえず駿河屋で買取価格をチェックした方がいい。今回も大昔のゲーム雑誌が4,000円というのがあった。危うく大損である。

 

 

新聞記者の桐生悠々が、忖度ニッポンを笑っていた? ホンマかいな。

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朝日新聞の一面の書籍広告は、じっくりと読む。記事よりも時間をかけるくらいだ。

朝日新聞の記事は、自分が慰安婦問題を大きくしたくせにその反省もなく、いつも上から目線で偉そうで、しかも読者の声まで「反日」「反アベ」に利用する。捏造、偏向、印象操作なんでもありだ。

読んでいて実に不快なのだが、一身上の都合でずーっと朝日新聞を購読しているのだ。肩身が狭くて仕方がない。早く潰れることを、心から願っているのである。

さて、今日の朝刊の一面に、こんな本の広告が掲載されていた。

「新聞記者・桐生悠々 忖度ニッポンを『嗤う』」

筆者は黒崎正己という人で、出版社は、現代書館である。

このタイトルを読めば、新聞記者の桐生悠々という人が、今の安倍政権で野党やマスコミが問題とするいわゆる「忖度」を笑っていると捉えられる。

だが、桐生悠々という新聞記者は、明治から昭和にかけて存在した人だ。忖度ニッポンとは、無関係のはずである。

そもそもこのタイトルは、桐生氏の書いた「関東防空大演習を嗤う」という記事のもじりであり、関東防空大演習を忖度ニッポンに変えただけである。

いやあ、実につまらん。

私もこの「関東防空大演習を嗤う」という記事は読んだことがある。確かこんな内容だった。

「関東の防空!? 何をアホなことを言うてんねん。関東は木の家がびっしり建ってるんでっせ。いったん爆撃されたら、一面焼け野原になりますがな。そやから入られる前に、爆撃機を落とさなあかんに決まってるやろ。アホちゃうか」

私は、この記事を読んで、「ああ、理論的な人なんだな」と思った。当時の精神万能主義的な軍部とは違い、きちんと防空のことを考え、その理論をわかりやすく伝えていると感じた。

広告の紹介文を見ると、「ファシズム批判を展開し」とあるのだが、上記の点でちょっと違和感があった。ファシズム批判というと、一部のリベラルな人たちを思い浮かべてしまうのである。桐生悠々という人は、あんな知性に欠けた連中とは違うように思えるのだ。

さらに「言いたい事と言わねばならない事と」という記事を読むと、こんなことが書かれている。

▼人ややもすれば、私を以て、言いたいことを言うから、結局、幸福だとする。だが、私は、この場合、言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う。私は言いたいことを言っているのではない。徒に言いたいことを言って、快を貪っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。

ほらね、やっぱりだ。

国民として、愛国者の一人として、人類として言うべきことを言う、そんな人なのである。自分の考えとは相容れない意見には耳も貸さず、いつも非寛容で、気に入らなければ中指をおっ立て、天皇陛下の写真を焼いて灰を踏みにじる。桐生悠々という人は、決してそんな人ではなかったのだ。

危険だと思うのは、こうした「言うべきことを言う」精神を、反骨精神と安易に捉え、「我が意を得たり」と持ち上げようとする気運である。

彼は、決して反骨でも反与党でもなかったと思うのだ。無理矢理与党にイチャモンを付けるような、現在の立憲民主党とはまったく違うのである。

いや、まあ、本当はほとんど知らないんだけど。

彼は、軍部に批判的な記事を書いたせいで、新聞社をクビになった。今の日本の記者たちは、それこそ毎日のように批判的な記事を書いているわけで、それでもクビになどならないのである。

忖度ニッポンと言うほどの事例はないのではないか。むしろメディアの人たちが見習わなければならないのは、「言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ」という姿勢である。

ぬるま湯のような環境で、「アベ政治を許さない」とお題目を唱え、へへへっと薄っぺらな笑みを浮かべているような連中に、桐生悠々はきっと怒っておられますよ。恥を知りなさいっ、と。

で、本当なら買って読んで、「ほら、やっぱりだ」とそれこそこの本を大いに嗤ってやりたいのだが、なにしろ金がない。とりあえず、今日のところは、このくらいにしといてやるのである。

ちなみに紹介文の最後に、「望月衣塑子さん推薦!」とあった。菅官房長官とコンビを組んで、お笑い質問会をやっている東京新聞の女性記者だ。

金ができても買うのはやめておこう、と私は心に誓った。

 

 

表現の不自由展で天皇陛下の肖像を焼いた大浦信行さん、とんでもない屁理屈をこねる。「あれは、昇華であり祈り。神社でみこしを燃やすのと同じで宗教的な側面がある」

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私だって、たまには屁理屈をこねますよ。例えば、こんな屁理屈である。

「なんですと!? 何を言っているのか。君のような美少女のオシッコは、汚くない! 聖水である。言わばこれは、宗教的儀式なのである。君のオシッコは、私の汚れた魂を昇華させてくれるのだ。さあ、早く私の全身にオシッコをかけなさい」

しかし、それが屁理屈であることは言うまでもないことだ。ああ、この助平ジジイ、ど変態なんやな、と誰もが思うのである。ここは、正直に、「へへへ、おじさん、変態なんだよ。君のような美少女にオシッコをかけられるとものすごく興奮するのさ」と言うべきなのである。

ああ、それなのに。

「表現の不自由展・その後」で天皇陛下の肖像を焼き、灰を靴で踏みにじった映像作品を出品した大浦信行さんのインタビュー記事が朝日新聞に載っていたのだが、もう、その内容に呆れましたね。

一般人の意識からはとんでもなく乖離している。いや、アート作品は、乖離すべきである。一般人の意識そのままの作品など、アートではない。常識を打ち破るのは、アートの大切な役割なのだ。

だが、無茶苦茶をやればいいというものでもない。特に天皇陛下の肖像を焼くという行為は、あまりにテーマとして安易すぎる。陳腐である。これは、アートではない。中学生あたりが思いつき、「タブーに挑戦するんや!」と面白がってやってみたというレベルに過ぎない。

さて、朝日新聞からインタビューの一部を抜き出してみよう。わかりやすくするために多少リライトしている。

記者「焼かれたのがあなたが以前作った作品だとしても、その中に肖像が含まれていたのは事実ですね。人の肖像が焼かれる光景がそもそも、見る者の心を痛ませるものでは?」

大浦「そういう側面もあるとは思います。ただ理解してもらえるかどうかは分かりませんが、僕にとって燃やすことは、傷つけることではなく昇華させることでした」

記者「正直よくわかりません」

大浦「祈りだと言い直せば伝わるでしょうか。燃やすという行為には、神社でみこしを燃やすような宗教的な側面もあるはずです。抹殺とは正反対の行為です。そもそも、もし天皇を批判するために燃やしたのだとしたら、そんな作品は幼稚すぎて表現とは言えません。灰を踏みにじったと批判されているシーンも同様です。踏みにじったとみれば天皇批判の行為に映るでしょうが、残り火を足で消火したと見る人には昇華を完結させた行為と映るはずです」

いやあ、屁理屈としか言いようがない。そもそもみこしを焼くというのは一般的なのか? 門松やしめ飾りを焼くどんど焼きのことを言っているのだろうか。まあ、毎年みこしを焼けば、みこし屋さんは大儲けだろうが。

さらにどんど焼きの場合は、残った灰を人々が持ち帰って家のまわりにまくという風習はあるが、踏みにじるという風習はないはずである。踏みにじるという行為は、どう考えても憎しみから生まれるものだ。踏みにじられて喜ぶのは、マゾ指向の変態だけである。ああ、そのハイヒールで金玉を踏みにじって~。

まあ、屁理屈としか言えないのだが、屁理屈は屁理屈として完遂していればまだいいのだ。

ところがこの人、後半でせっかくこじつけた「昇華」を覆してしまっている。

大浦「自分本位という批判には、『すみません、そのようにしか生きられないのです』と応えるしかないと感じます。芸術とは、爆弾や毒をはらむものです」

だったら、最初から爆弾でいいではないか。自分の作品は、毒だと説明すればいいではないか。なぜ、「昇華だ」「祈りだ」と言い訳して、自分の作品を貶めてしまうのか。言えば言うほどうさん臭くなる。いや、はっきりとウンコ臭くなると断言してもいいくらいだ。

そんな言い訳、私が「美少女のオシッコは聖水」と言うのと同じくらいレベルの低い言説なのだ。恥を知れ、と言いたい。もちろん、私も存分に恥じ入る。

また、この人のウンコ臭さは、自らの発言からも明白である。

天皇を批判するために燃やしたのだとしたら、そんな作品は幼稚すぎて表現とは言えません」

批判するために燃やしたのか、昇華のために燃やしたのか、そんな個人的な理由は、作品から生み出されるチカラには何の影響も及ぼさないのだ。見た人がどう受け取るかがすべてである。発表した時点で、その作品は一個の独立した存在なのだ。

「いや、実はこの作品には崇高な意図がありまして」などと説明するのは、野暮と言うものである。語れば語るほど、アーティストの価値は下がるのだ。いや、人間の価値そのものが下がるのである。

そもそも昇華のために燃やすのなら、なぜバーナーなどという無粋な道具を使うのか。強力な青い炎で燃やす映像からは、宗教的な側面などちーとも感じないのだ。私なら火縄を使って、畏れ多くも天皇陛下の御写真にゆるゆると燃えていただく。

ま、この人は、この程度のアーティストなのだと、私は偉そうに結論づけたのである。

ちなみに言うまでもないことだが、決して天皇陛下の御写真に美少女のオシッコを(以下、自己検閲により365文字削除)