だれかが松葉杖で扉をたたく

結構、嘘つきである。

置き去りにされた人々 映画「レフト・ビハインド」

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B級映画のキングといえば、カート・ラッセルである。異論があるなら「ニューヨーク1997」を見よ、と言いたい。いかにもアメリカのあんちゃんであり、何をやっても雑で無神経。彼は、脳天気この上ないアメリカそのものである。

最近、その地位を狙っているのか、ニコラス・ケイジがやたらB級映画に出演している。「レフト・ビハインド」もその一つなのだが、残念ながら、ニコラス・ケイジにはB級映画は似合わない。脳天気さと無神経さが足りない。「低予算? シナリオが悪い? そんなもんワイが何とかしたるわい」という強引さがない。

「レフト・ビハインド」は、そんなちょっと残念な映画だった。

まず、この映画の骨子は、「世界に終末が訪れるときキリストが再臨し、彼を信じるものは天に召される」という聖書の一節にある。よく言う「信じるものは救われる」というやつだ(たぶん)。

ニコラス・ケイジパイロットのレイ役。その娘が大学生クローイ。二人とも無神論者なのだが、母親が宗教にはまっていて一家は危機的状況だ。クローイには小学生の弟がいて、彼は父母の不仲に心を痛めている。

レイは自分の誕生日だというのに仕事を入れ、ロンドンで客室乗務員との不倫を計画している。父親に会いたかったクローイは実家に帰る前に空港に出かけるのだが、そこでも母親に対する愚痴をこぼし、父親の不倫の計画に気がついても「母親があれでは仕方がないね」とあきらめ顔だ。

実家に帰っても、すぐに母親と口論になり、気分転換に弟とショッピングモールに出かける。そこで異変が起こる。

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弟を抱きしめた瞬間、服だけを残して消えてしまったのだ。

消えたのは弟だけではない。子供たちが全員消え、彼らが持っていた風船が空中にゆらゆらと舞い上がっていく。これは、前述した「天に召される」ことを象徴的に見せたものだろう。

車が暴走し、軽飛行機が街に突っ込み、大混乱が起こる中、クローイは実家にたどり着く。だが、母親は消えていた。弟とともに信心深い母親も救われたのだ。

レイが操縦する旅客機の中でも異変は起こった。赤ん坊や子供が消え、副操縦士をはじめとする一部の大人も消えたのだ。

弟が消えてから、大混乱が起こるあたりまでは、なかなか見応えがある。特に弟が消えたときのショックと、その後のクローイの絶望感はリアルである。私は、72点をつけた。だが、その後がいけない。

「レフト・ビハインド」第二部は、チープな航空パニック映画になってしまった。

本来なら、救われた者と置き去りにされた者という深いテーマを持つ映画のはずが、後半を航空パニック映画にしたために、大切なテーマが吹っ飛んでしまった。そして、聖書による解釈を陳腐なものにしてしまった。

置き去りにされた者の悲哀をもっと描くべきだし、結末は、その先にある。

特にラストのクローイのセリフが絶望的に陳腐だった。「世界は終わったのか」「いえ、これから始まるのよ」。B級映画に陳腐なセリフはつきものだが、これは、手垢が付きすぎたセリフだ。ただ、もしかすると翻訳のせいかもしれないので、この判断は保留である。英語ではどういう表現だったのか、確かめる気力もないのでそのまま放置する。

ついでに邦題にけちをつけると、「レフト・ビハインド」では意味がさっぱりわからない。「置き去りにされる」とかの意味があるらしいのだが、それなら「置き去りにされた人々」とか「救われざる者」とかの副題をつけるべきだろう。

しかし、宗教というのは歴史上虐殺を繰り返してきた大元なのだが、つくづく罪作りな存在である。自分を信じる者だけ救っといて、あとは知らん顔。この映画でも、飛行機は落ちるは、バスは川に突っ込むは、いったいどれだけの人間を殺せば気が済むのか。

これは、キリストによる世界同時多発テロだ。さすがはキリストだ。その被害は、偉大なアッラーの遙かに上をいくのである。

 

 

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