だれかが松葉杖で扉をたたく

結構、嘘つきである。

メフィスト賞を誤解していたのかも知れない。「図書館の魔女」の下巻に手に汗握って鼻水も出る。

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以前、メフィスト賞を受賞した作品を読んで、「なんじゃこりゃ」と思ったことがある。

ラノベにしても文章が下手くそ。凝ったつもりなのだろうが格調がない。ギャグ的な言葉遊びも独りよがりでとても読めたものではなかった。まあ、買った以上は全部読んだのだが、ものすごく時間がかかった。分厚い本だし、苦行に近かったのである。

メフィスト賞という名称からして、ラノベの登竜門なんだなと判断してそれ以来近寄らないことにした。高田大介氏の「図書館の魔女」を手に取ったのは、図書館で借りた本であり、「メフィスト賞受賞!」などの惹句が書かれた帯が外されていたからだ。

いやあ、危ない。傑作を読み逃すところだった。

今、「図書館の魔女」の下巻を読み終えたところなのだが、非常に面白かった。下巻では、戦争を回避するための策略と、主人公の利き腕を暗示によって封印した「双子座」との戦いが描かれる。「そうだったのか!?」というどんでん返しも見事である。

この作品の魅力は地の文章にもあって、まあ、それがなければこんな長い小説読みきれない。難しい言葉が多いのだが、邪魔にならない。世界観に合っていて、それぞれの言葉が文章に溶け込んでいるのだろう。

そして、本に関する記述が時折あるのだが、これが印象的だ。ちょっと長いが引用してみる。

 

▼読めるものが増えて、書が増える。それは書の持つ力、読むことの力、書くことの力、そのもたらす計り知れない利益を理解する者が増えたということを意味する。そして時代を追って需要が増していく以上、書物を大量に複製し、大規模に流通する要請が生じる。しかし同時に、複製技術の進歩がこの機運に雁行するから、書物が複製されるのに有徳の士の貴重な時間を削る必要もなくなる。言語を修めるのに数年、書字の翻刻を究めるのに数年、そして現に手で書き写していくのにまた数年、そのように修練を経た者の手で書物が一つひとつ増やされてきたのは事情が異なってくる。書物は命を削って書き写すものではなくなるだろう。単に刷られる。望めば数限りなく。

書物の複製にかける犠牲が少なくなるということだ。結果として、命を賭して書き写さねばならない書物を見極める眼力が曇っていく。これを読むなら、これを書き写すなら、こっちは諦める、こっちは捨てる、そういう苦渋の決断がもういらないんだからね。

▼これはすべて、もとはといえば書物を読むということの価値が広く知れ渡ったからだというのに、結果はまったく矛盾したものなる。書物が一介の消費財となる上に、複製すべき書物を選ぶのに人が人生を賭すほどの意味が無くなる。その帰結として起こることはもはや自明だ。この世に駄本が満ちあふれて流通することになる。愚書が蔓延る。

 

私には、本の出版数が少なかった頃の記憶があり、その時の本を選ぶ自分と、現在の豊富な本(Amazon)から選ぶ自分との違いがはっきりとわかる。思えば、恋い焦がれるように出版される日を待った若き日々が懐かしい。

「図書館の魔女」の下巻では、敵役であるミツクビの描写も多い。このミツクビというのは、かつては非常に頭のキレる男だったのだが、歳を取ってさすがに衰えてきた。その衰えを劇薬を使って活性化している恐ろしい男である。

表情がその都度超高速で変化するのである。まるで3人の人格が同時にあるように見えることからミツクビと称されるのだ(だったと思う)。

このミツクビの思考が約3ページに渡って語られるのだが、改行はもちろん、句読点もなしである。読みづらいかと思いきや、意外と読める。というか、むしろミツクビの思考と同様に、自分の思考も速くなったような気がした。

読み終わってこれほど満足したのは、久しぶりだ。

で、さっそく「図書館の魔女 鳥の伝言」を読み出したのだが、どうやら単純な続編ではないようだ。今度の主人公(かどうかはまだわからない)は、言葉を解しないという設定のようである。マツリカの理路整然とした言葉が魅力だった前作とは、正反対である。

ちなみに私が好きだったマツリカとキリヒトの出番は少ないようだ。残念だが、安易な続編でないことは好ましい。読み終えるのが楽しみである。