だれかが松葉杖で扉をたたく

結構、嘘つきである。

平安貴族じゃあるまいし。人の努力に感動を託すのは、そろそろやめにしようと反省する。

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冬季オリンピックが終わったと思ったら、今度は野球やら相撲やらのニュースがチラホラしてきた。

自分は何の努力も苦労もせずに他人の頑張りを見て楽しむというのは、ちょっと気が引ける。特に最近私はあまり仕事もせず、本を読んだりネットで映画を見たりして時間をつぶしていることが多く、なんとも申し訳ないことだ。働かず者食うべからず。働かずして楽しむのは、やってはいけないことに思える。

女子カーリングなど随分と楽しませてもらったのだが、私はただホットカーペットの上に寝転んでテレビを見ていただけである。彼女たちには、一円も支払っていないのだ。できれば、「銅メダルおめでとう」と彼女たちに三億万円くらい渡したいのである。

スポーツだけではない。

小説や映画にしても、それを作品として送り出すまでにはとてつもない労力がかかっているわけで、千円程度の金額でその楽しみを享受するなど、本当に申し訳ない。私が普段バカにしているバラエティー番組だって、ホットカーペットの上で寝転んでいるだけでは完成しないのだ。かなりの人数の人々が、かなりの労力をつぎ込んでいるのである。

まあ、送り手には苦労だけではなく、それ以上の満足感も得られる。

私もスポーツ選手のことは知らないが、小説に関しては、その送り手の満足感は知っている。いいアイデアを思いつき、それを一字一字積み上げて作品に近づけていくあの感覚は、苦行ではあるが、充実感に満ちている。書き上げ、例えマイナーな雑誌とは言えそれが活字になった時の気持ちは何物にも代えがたい充足につながる。

読者である楽しさとは次元の違う楽しさなのだ。それこそが生きる意味なのである。享受するだけでは、その意味は得られない。

考えてみれば、今の私の立場は、わずかな儀式以外に何の生産にも関わらず、蹴鞠や歌会に興じる平安貴族。また、剣闘士や奴隷たちの命を賭けた勝負に鈍感な心を無理矢理動かしていたローマ時代の貴族に似ている。生活保護の不正受給をして、その金をパチンコにつぎ込んでしまう生きる屍たちと、なんら代わらない存在なのだ。

これではいかんな、と私は思う。残り少ない人生を、こんな時間つぶしで過ごしていいはずがない。せめて小説などを書くべきである。よし、家に戻ったら、さっそく大作に取りかかるのだ。

「ご注文はお決まりですか」と声がした。そうだ、昼飯を食べようと洋食屋に来ていたんだった。まだ貴族の気分が抜けていない私は、思わず「まだでおじゃる」と返答した。