だれかが松葉杖で扉をたたく

結構、嘘つきである。

その程度のハゲでカツラを使うんじゃないっ、と思わず怒鳴った「サバイバルファミリー」

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昔読んだSF小説に「雷獣ヴァベリ」というのがあった。フレドリック・ブラウンという作家による短編小説である。

これは、電気を食ってしまう地球外生命体のせいですべての電気が使えなくなるというお話だ。電気が発生するそばから食われてしまうので、家電製品はもちろん、車や飛行機も動かない。人々は、冬は暖炉で温まり、夏は打ち水。車の代わりに馬車で行き来する生活となる。

結末がなかなか印象的で、主人公は電気の使えない世界を肯定しながらも、ただ稲妻が見られなくなったことを残念に思うという文章で終わっていた。

で、「サバイバルファミリー」である。

この映画の設定は、「雷獣ヴァベリ」と同じだ。突然、電気が使えなくなる。スマホは通じない。テレビも映らない。エレベーターは動かない。車も動かないから、コンビニに商品が届かない。電気がないのだから、食品工場だって稼働しないのである。

水道も出ないし、トイレも流れない。世界的な規模だから、どこからも助けは来ない。そもそも情報が一切入らないから、何がどうなっているのかさっぱりわからない。

会社では頑張ってる風の主人公が、そんな世界を家族とともにどうやって生き抜いていくのか、というのがこの映画の本筋だ。

言わば、思考実験であり、それを楽しむことができないと「突然電気が使えない。蓄電池もだめ? 最後までその原因の説明がないまま、ただアホな一家のどうでもいい寸劇に付き合わされる映画です」などとアホなレビューを晒すことになる。

テーマとしては、「スマホと生きるのと、自然と向き合って生きるのと、どちらが人間らしいんだ」的なものがあるのだろうが、それを前面に出しすぎるとしらけるわけで、その点、この映画は、お説教臭くなくていい。

面白いのは、こうした世界にも格差はあり、食べ物や飲み水を持っている者と持たざる者。自転車で移動する者と、その横をとぼとぼ歩く者など、映画の中では鮮やかに描かれていた。

この映画で描かれていた以外の場所では、ペットボトルのために人殺しが起こっていたかも知れないが、まあ、そうしたシーンを出すと、ちょっと違う系の映画になるわけで、せいぜい出てくるのは泥棒程度だ。

映画の中で格差社会の頂点として描かれていたのが、途中で主人公たちが出会うアウトドア一家である。主人公たちは、実際にはダメファミリーなのだが、このアウトドア一家こそが本物のサバイバルファミリーだ。水を得るノウハウや食べられる野草の知識があり、かっこいい自転車に洒落たサイクリングウェア、電気が使えない世界を生き生きと楽しんでいる。

そういうノウハウを持たない人間からするし、うらやましく、ねたましく、腹立たしい存在だ。上に載せた写真は、格好つけたサバイバルファミリーが主人公たちを撮った写真である。格差を自覚した父親の表情が悲しい。

私も「実にイヤな連中だな。仲良し家族の演技をしやがって。ああ、うさん臭い」などと思ったのだが、それはつまり主人公のダメな父親に感情移入しているということだ。自分のダメさ加減を知った父親に、共感してしまったのだ。

この父親、実は頭頂部にカツラを装着している。演じる小日向文世さんは、確かにフサフサではないが、私から見れば、十分にフサフサである。

このカツラがダメおやじの「ダメ」を象徴していたのだが、ある危機的場面とそれを乗り越えた場面で、なかなか効果的に使われていた。まあ、私としては、「この程度のハゲで、カツラなんか使うんじゃないよ。本物のハゲに対する侮辱であるっ」と腹立たしかったのだが。

雷獣ヴァヴェリに描かれた電気のない世界を「いいなあ」と思った私からすると、「サバイバルファミリー」の結末は、果たしてよかったのかどうか。あの経験を思い出に終わらすのは惜しいんじゃないか、と思うのである。まあ、それも電気を享受する立場だから言える、勝手な言い草なのだが。

本当のところ、私が電気のない世界に放り込まれたら、喉が渇いて、だからと言って人のペットボトルも奪えず、近所の川の汚水をゴクゴクと飲んで下痢ピーになって、体内の水分を放出し続け、そのまま干からびて野垂れ死ぬと思う。我ながら、実に哀れだ。