だれかが松葉杖で扉をたたく

結構、嘘つきである。

表現の不自由展で天皇陛下の肖像を焼いた大浦信行さん、とんでもない屁理屈をこねる。「あれは、昇華であり祈り。神社でみこしを燃やすのと同じで宗教的な側面がある」

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私だって、たまには屁理屈をこねますよ。例えば、こんな屁理屈である。

「なんですと!? 何を言っているのか。君のような美少女のオシッコは、汚くない! 聖水である。言わばこれは、宗教的儀式なのである。君のオシッコは、私の汚れた魂を昇華させてくれるのだ。さあ、早く私の全身にオシッコをかけなさい」

しかし、それが屁理屈であることは言うまでもないことだ。ああ、この助平ジジイ、ど変態なんやな、と誰もが思うのである。ここは、正直に、「へへへ、おじさん、変態なんだよ。君のような美少女にオシッコをかけられるとものすごく興奮するのさ」と言うべきなのである。

ああ、それなのに。

「表現の不自由展・その後」で天皇陛下の肖像を焼き、灰を靴で踏みにじった映像作品を出品した大浦信行さんのインタビュー記事が朝日新聞に載っていたのだが、もう、その内容に呆れましたね。

一般人の意識からはとんでもなく乖離している。いや、アート作品は、乖離すべきである。一般人の意識そのままの作品など、アートではない。常識を打ち破るのは、アートの大切な役割なのだ。

だが、無茶苦茶をやればいいというものでもない。特に天皇陛下の肖像を焼くという行為は、あまりにテーマとして安易すぎる。陳腐である。これは、アートではない。中学生あたりが思いつき、「タブーに挑戦するんや!」と面白がってやってみたというレベルに過ぎない。

さて、朝日新聞からインタビューの一部を抜き出してみよう。わかりやすくするために多少リライトしている。

記者「焼かれたのがあなたが以前作った作品だとしても、その中に肖像が含まれていたのは事実ですね。人の肖像が焼かれる光景がそもそも、見る者の心を痛ませるものでは?」

大浦「そういう側面もあるとは思います。ただ理解してもらえるかどうかは分かりませんが、僕にとって燃やすことは、傷つけることではなく昇華させることでした」

記者「正直よくわかりません」

大浦「祈りだと言い直せば伝わるでしょうか。燃やすという行為には、神社でみこしを燃やすような宗教的な側面もあるはずです。抹殺とは正反対の行為です。そもそも、もし天皇を批判するために燃やしたのだとしたら、そんな作品は幼稚すぎて表現とは言えません。灰を踏みにじったと批判されているシーンも同様です。踏みにじったとみれば天皇批判の行為に映るでしょうが、残り火を足で消火したと見る人には昇華を完結させた行為と映るはずです」

いやあ、屁理屈としか言いようがない。そもそもみこしを焼くというのは一般的なのか? 門松やしめ飾りを焼くどんど焼きのことを言っているのだろうか。まあ、毎年みこしを焼けば、みこし屋さんは大儲けだろうが。

さらにどんど焼きの場合は、残った灰を人々が持ち帰って家のまわりにまくという風習はあるが、踏みにじるという風習はないはずである。踏みにじるという行為は、どう考えても憎しみから生まれるものだ。踏みにじられて喜ぶのは、マゾ指向の変態だけである。ああ、そのハイヒールで金玉を踏みにじって~。

まあ、屁理屈としか言えないのだが、屁理屈は屁理屈として完遂していればまだいいのだ。

ところがこの人、後半でせっかくこじつけた「昇華」を覆してしまっている。

大浦「自分本位という批判には、『すみません、そのようにしか生きられないのです』と応えるしかないと感じます。芸術とは、爆弾や毒をはらむものです」

だったら、最初から爆弾でいいではないか。自分の作品は、毒だと説明すればいいではないか。「私は天皇というシステムが嫌いだから、燃やして踏みにじってやりました」と、なぜ言わないのか。なぜ、「昇華だ」「祈りだ」と言い訳して、自分の作品を貶めてしまうのか。言えば言うほどうさん臭くなる。いや、はっきりとウンコ臭くなると断言してもいいくらいだ。

そんな言い訳、私が「美少女のオシッコは聖水」と言うのと同じくらいレベルの低い言説なのだ。恥を知れ、と言いたい。もちろん、私も存分に恥じ入る。

また、この人のウンコ臭さは、自らの発言からも明白である。

天皇を批判するために燃やしたのだとしたら、そんな作品は幼稚すぎて表現とは言えません」

一番怖れている指摘に対する言い訳が、つい出てしまったのだ。自覚しているのだろう。深層心理が見え見えなのである。

そもそも批判するために燃やしたのか、昇華のために燃やしたのか、そんな個人的な理由は、作品から生み出されるチカラには何の影響も及ぼさないのだ。見た人がどう受け取るかがすべてである。発表した時点で、その作品は一個の独立した存在なのだ。

「いや、実はこの作品には崇高な意図がありまして」などと説明するのは、野暮と言うものである。語れば語るほど、アーティストの価値は下がるのだ。いや、人間の価値そのものが下がるのである。

そもそも昇華のために燃やすのなら、なぜバーナーなどという無粋な道具を使うのか。強力な青い炎で燃やす映像からは、宗教的な側面などちーとも感じないのだ。私なら火縄を使って、畏れ多くも天皇陛下の御写真にゆるゆると燃えていただく。そして、踏みにじるのではなく、手でその炎を消すだろう。

ま、この人は、この程度のアーティストなのだと、私は偉そうに結論づけたのである。「表現者としては、偽物だな」と私は感じた。

ちなみに言うまでもないことだが、決して天皇陛下の御写真に美少女のオシッコを(以下、自己検閲により365文字削除)

 

 

木下優樹菜さん、謝罪文でも頭の悪さを晒してしまう。

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私はテレビは見ない。テレビを見るほど愚か者ではない。テレビなど見ても何の利点もないのである。あんなもの時間の無駄。単なる暇つぶしでしかない。

で、私はテレビは見ないが、パソコンでエロサイトはよく見ている。これは、極めて論理的な行動だ。

あなた、テレビ番組で、思わず勃起するようなシーンが出ますか。いーや、出ないのである。いつ出るかわからないシーンのために、なぜ、だらだらとテレビを見なければならないのか。エロサイトなら、そのものズバリのシーンをすぐに見ることができるのだ。効率的な助平こそ、令和の時代にふさわしい。あなたも、テレビを見るのはやめて、今すぐエロサイトを見たまえ。

ただし、テレビを見ないことの弊害も実はある。ニュースについて行けないこともその一つだ。中途半端な芸能人をほとんど知らないのだ。

今日も「チンピラ 木下優樹菜さん、脅迫で逮捕か。タピオカ店長の女性に事務所と雑誌の圧力を掛けたDMを晒されて大炎上」というネットのニュースを読んで、興味を引かれたもののまったく人物像が浮かばなかった。

タレントらしいのだが、顔写真を見てもわからない。安っぽい美人系の顔なのだが、そう言えば以前行ったキャバクラのお姉ちゃんがこんな感じだった。

フジモンの奥さんとのことだが、そのフジモンという人物もわからない。おそらく藤田紋次郎などの名前でそれを縮めてフジモンなのだろう。パクリデザイナーとして名を上げた佐野研二郎、サノケンと同じタイプのニックネームである。ちなみに玉置金二郎だとタマキンだから命名の際は要注意だ。

一般人のTweetなどを読んでみると、この人、かなり頭が悪いらしい。もともとそれ系で売っていたらしいのだが、私などは、頭がいい人が悪いふりをするのはいいのだが、悪い人が悪いままにテレビに出ているのは苦手である。気の毒で見ていられないのだ。昔は、テレビに出てくるのは頭のいい人ばかりだったのだが、最近は悪い人も多くて、私がテレビを見なくなったのもそこに一因がある。

さて、今回の件を要約すると、タピオカ店の開店時に木下優樹菜さんのお姉さんが手伝いに行ったのだという。ところがなぜか優樹菜さんは、インスタに「姉がタピオカ店を開店。みんな行ってちょ」と姉がオーナーのように読み取れる記事を投稿した。

お姉さんは単なる手伝いである。タピオカ店長は「いや違うやろ」と優樹菜さんの姉に注意したのだが、彼女はへそを曲げて店を辞めた。その出来事を、「備品の紛失の犯人扱いされた」だの「給料未払い」だの優樹菜さんに訴えたようなのだ。

それを聞いて優樹菜さんは、怒りをコントロールできなかったらしい。姉の言うことを真に受けて、「出方次第でこっちも事務所総出でやりますね」「いい年こいたばばあにいちいち言う事じゃないと思うしばかばかしいんだけどさー」「色々頭悪すぎな」などと罵詈雑言である。

いやいやいや、お前が頭悪すぎなのだ。

頭の悪い人が上から目線で発言することほど、イラッとすることはない。今の時代、そんなことをやると、すぐに拡散されて逆に炎上して、自分の馬鹿さをさらに世間にさらけ出すことになる。

案の定、優樹菜さんの場合も炎上し、謝罪の文章を出すことになった。CMのスポンサーも「あかん、このままやとやばい」と速攻で放映中止にしたようだ。

ちなみに、謝罪文も、やっぱり頭が悪かった。

「私の発言はいくら大切な家族のための事とは言え一方的な凄く幼稚な発言だったと思います。実の姉の事なので一時的に感情的になってしまいました」

これは、家族のためだから仕方がなかったと言い訳しているだけである。言い過ぎたことを謝っているだけなのだ。

肝心の「原因は自分と姉にある」「自分が勘違いしていた」「姉の言ってることを信じ込んでしまった」ということが書かれていないのだ。「言い過ぎたのは悪いが、原因は店のオーナーにもある」とも受け取れる以上、これは謝罪文とは言えない。

謝ることすら満足にできないから、頭が悪いと言われるのだ。愚か者よ。

 

 

映画三部作の傑作に、「バットマンシリーズ」を格上げ。ダークナイトライジングの評価を6から8に上げる。

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あなたね、映画で三部作と言ったらジェイソン・ボーンとバック・トゥ・ザフューチャーに決まってるでしょうが~。

この二つのシリーズは、脳天気で無神経なアメリカにしては驚くほどよくできた映画で、私もDVDを購入して何度も見返している。エイリアンシリーズもターミネーターシリーズも出来のいいのは2までで、3で路面に突き出た小石につまずいて転倒したのである。今も転倒したまま這いずり回っている状態で、情けないにもほどがある。どうせまた新作が出るのだろう。

そして、バットマンビギンズからはじまる三部作なのだが、実は私は映画館で見た際には「やっぱり3作目でこけたか」とがっかりしたのだ。

私はバットマンビギンズのオリジナルポスターを大枚はたいて購入するほど好きで、2作目の「ダークナイト」で大傑作!と驚喜。おそらく期待値が高すぎたのだろう。「ダークナイトライジング」は、見終わった瞬間にウーンと唸り、それが引き金となって腹痛が起こってトイレに駆け込んだ。敵役のベインがまるでマッドマックスのキャラクターであり、ジョーカーに比べるとあまりにチープに思えたのだ。

残念! 10点満点で6点。

で、ついこの間、7年振りに三部作を見返してみて、私は前言を撤回した。7年もたてば、人間の主観などがらりと変わるのである。

すばらしい! 10点満点で8点。

ダークナイトライジング」も傑作だと認定して、ジェイソン・ボーン、バック・トゥ・ザ・フューチャーと並ぶ三部作として、バットマンも格上げされたのである。

私に格上げされたって誰も喜ばないと思うが、とりあえずおめでとう!

なぜ、「ダークナイトライジング」をイマイチだと感じたのかというと、ベインの造形という表層的な要因は別として、おそらく私としては「バットマンは最後死ぬべきだった」という願望があったからだと思う。そして、制作者にもその誘惑があったのではないか。

中性子爆弾を自らの命をかけて海上まで運ぶという行為は、ラストにふさわしい犠牲的精神だ。これ以上の結末はないのである。

アルマゲドン」で最後自分の命をかけて地球を救ったブルース・ウィリスが「実は生きていた」という結末だったら、あなたはどう思うか。ブルース・ウィリスの生還に驚く娘や娘婿に、「いや、宇宙人が助けてくれたんや」と照れくさそうにハゲ頭をかいたら、あなたは激怒すると思う。

「きちんと死んどけや~っ」と叫ぶに違いない。

映画の一番大きな伏線(というかミスリード)は、「自動操縦装置は故障している」という説明であり、最後はバットマン自らキャットウーマンにも念押ししている。

これは、いくらなんでもくどすぎである。「自動操縦は故障しているのさ。だから自分で操縦するしかない。つまりおれは死んでしまうのさ、ベイビー」と言っているわけで、お前に美学はないのかと問いたい。

ヒーローは、そういうことを告げずに去るからヒーローなのである。あとで「えっ、死を覚悟していたの!?」とみんなに泣かれるからヒーローになることができるのだ。

ところが、あなた。

ラストの複線の回収で、自動操縦はバットマン(ブルース・ウェイン)の指示により直っていたことが判明する。そして、ブルース・ウェインが破産・死亡したことで売却されるはずの母親の形見である発信器付きネックレスがなぜか紛失。さらに、ブレイク(ロビン)には、バットマンの基地を示す座標が移譲される。バットマンの座を譲る気満々なわけである。

もう、こうなるとバットマンは生きているに決まってるわけです。私、映画を見ながら「あ~あ、これ、生きとるがな」と本当にかっかりしました。

で、問題になるのは、いつバットマンが自動操縦に切り換えてザ・バットから降りたのかという点である。

海上か?

いやいや、モノはプラスチック爆弾じゃない。強力な中性子爆弾ですよ。爆心地に近ければ、これは死ぬに違いない。

だとすれば、海に出る前に機から降りたという可能性が一番高いのではないか。どうせ自動運転できるのなら、早めにセットした方が確実である。バットマンだって、海水に濡れるのはいやだろう。

キャットウーマンやゴードン市警本部長が「ああ、彼こそヒーローだ」と感動しているそのすぐ裏手の路地で、いそいそとザ・バットから降り、「へへへ、これでみんな騙されよるで」とほくそ笑むバットマンの顔は、まさにジョーカーよりも醜いのではないか。

まあ、中性子爆弾というのは、通常の核爆発と違って、水が遮蔽物になるのだそうだ。もしかすると海中に深く潜れる装備を準備し危機を脱したと考えれば、仮に自動操縦が故障していたとしても、彼が生き残る可能性はゼロではない。

まあ、生きててもいいや。

私が今回「ダークナイトライジング」を見返してそう思ったのは、ラストで見ることのできたゴードン市警本部長が自分が壊したはずのサーチライトがいつの間にか直されているのを知った時の笑顔、そしてなにより、執事のアルフレッドがフィレンツェキャットウーマンと席を共にするブルースと邂逅し、軽く会釈をした後、「こうしてはいられない」とばかりにいそいそと席を立つシーンを見たからだ。

発信器付きのネックレスを通じてブルースが生きていることを知ったのだろうが、その時のアルフレッドの顔も見たかったものだ。自分が全面的に味方になってやらなかったことで、ブルースが死んだと思い込んでいたのだ。さぞ、歓喜したことだろう。

ブルースが死んだままでは、アルフレッドがあまりに可哀想すぎるではないか。劇場で見てから7年分歳をとり、確実に老人の域に達した私は、その一点で、バットマンが生きていたことに賛成したい。