女性のほうが好きである。私は男だから、まあ普通の話だ。
最近は性的マイノリティに配慮する必要があるらしいので、「それが当然だ」とか言ったりすると面倒なことになるので言わないが、私は断然女性の方が好きである。徹底的に好きと言っても過言ではない。
さて昨日は、女性と3時間ほどブラブラしたのだが、仕事とは言え楽しかった。ところが今日は、オッサン連中とブラブラしなければならない。
ああ、憂鬱だ。とてつもなく憂鬱だ。
ブラブラさせるのは、自分のキンタマだけで充分である。
それで思い出したのだが、「◯◯だけで充分だ」というセリフで素晴らしいのがあった。今日は女性が好きだという話を書こうと思っていたのだが、そちらのセリフの話にしよう。
キンタマをブラブラさせるより、はるかに美しい話なのでぜひお読みいただきたい。
「夕陽のギャングたち」という映画の話である。
監督は、セルジオ越後に似た名前のセルジオ・レオーネ。もちろん、セルジオ越後さんとは無関係である。
メキシコ革命の動乱の中、アイルランド人の革命家がメキシコにやってくる。爆破の名人だ。演じるのは、ルパン三世の次元大介にそっくりなジェームズ・コバーンである。足が長くて細い。カッコイイことこの上ない。
テーマは、友情である。
主に二つの友情が描かれる。現在の相棒との友情と、過去に過ぎ去ってしまった友情だ。主人公は、かつて親友に裏切られ、そのために親友を殺さねばならなかった過去を持つ。
そんな主人公が、一人の革命の同士と出会う。実は彼には、拷問にかけられたあげく裏切り者になってしまった経験がある。仲間は誰も知らない。だが、自分が隠れ家をしゃべったために、多くの人々が犠牲になったのだ。
「裏切ったのは、お前だろう」
そう言う主人公に、彼は胸の内の苦しみを吐き出す。
「おれを責めるのか。だったらおれを殺せ」
苦悩に顔をゆがめる裏切り者に主人公は言う。それが今回ご紹介する名セリフである。悲しみと諦観の混じった表情で主人公が言う。
「人を裁くのは、一度だけで充分だ」
主人公の脳裏に、かつて親友だった男の顔が浮かぶ。自分が撃った弾丸に倒れていく親友の苦痛に歪んだ顔がクローズアップされる。
過去のつらい記憶がスローモーションで蘇り、美しい音楽とともにそのシーンが再現される。親友の額から流れる血。崩れ落ち、画面から消えていく姿。重なる旋律。
その世界の美しいこと。
もちろん美的感覚は人それぞれである。金ピカのロレックスに美しさを感じる人を、私は否定しない。だが、このシーンの美しさがわからない人は、人間ではないと私は断言する。きっと地底人なのだ。早く地底に帰りたまえ。
セルジオ・レオーネの作品では「ウエスタン」も素晴らしいが、この「夕日のギャングたち」もそれに匹敵するくらい素晴らしい。
ちなみに、私が一度だけで充分だと思うのは、脱糞である。小学生のときに私は脱糞した。あの時の記憶は、今もくっきりと脳裏に刻まれている。開放感と絶望感が混じり合ったあの時の感情。おそらく死ぬまで忘れないはずである。
せっかくの美しい映画の話の冒頭がキンタマで、最後が脱糞である。汚い話で申し訳ないが、しかし、あなた、キンタマやウンコが汚いと思うのは、それは明らかに偏見でありヘイトであり(以下略)
お口直しに美しい音楽をお楽しみください。
Ennio Morricone - A Fistful Of Dynamite Main Theme (1971)