朝日新聞の一面の書籍広告は、じっくりと読む。記事よりも時間をかけるくらいだ。
朝日新聞の記事は、自分が慰安婦問題を大きくしたくせにその反省もなく、いつも上から目線で偉そうで、しかも読者の声まで「反日」「反アベ」に利用する。捏造、偏向、印象操作なんでもありだ。
読んでいて実に不快なのだが、一身上の都合でずーっと朝日新聞を購読しているのだ。肩身が狭くて仕方がない。早く潰れることを、心から願っているのである。
さて、今日の朝刊の一面に、こんな本の広告が掲載されていた。
「新聞記者・桐生悠々 忖度ニッポンを『嗤う』」
筆者は黒崎正己という人で、出版社は、現代書館である。
このタイトルを読めば、新聞記者の桐生悠々という人が、今の安倍政権で野党やマスコミが問題とするいわゆる「忖度」を笑っていると捉えられる。
だが、桐生悠々という新聞記者は、明治から昭和にかけて存在した人だ。忖度ニッポンとは、無関係のはずである。
そもそもこのタイトルは、桐生氏の書いた「関東防空大演習を嗤う」という記事のもじりであり、関東防空大演習を忖度ニッポンに変えただけである。
いやあ、実につまらん。
私もこの「関東防空大演習を嗤う」という記事は読んだことがある。確かこんな内容だった。
「関東の防空!? 何をアホなことを言うてんねん。関東は木の家がびっしり建ってるんでっせ。いったん爆撃されたら、一面焼け野原になりますがな。そやから入られる前に、爆撃機を落とさなあかんに決まってるやろ。アホちゃうか」
私は、この記事を読んで、「ああ、理論的な人なんだな」と思った。当時の精神万能主義的な軍部とは違い、きちんと防空のことを考え、その理論をわかりやすく伝えていると感じた。
広告の紹介文を見ると、「ファシズム批判を展開し」とあるのだが、上記の点でちょっと違和感があった。ファシズム批判というと、一部のリベラルな人たちを思い浮かべてしまうのである。桐生悠々という人は、あんな知性に欠けた連中とは違うように思えるのだ。
さらに「言いたい事と言わねばならない事と」という記事を読むと、こんなことが書かれている。
▼人ややもすれば、私を以て、言いたいことを言うから、結局、幸福だとする。だが、私は、この場合、言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う。私は言いたいことを言っているのではない。徒に言いたいことを言って、快を貪っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。
ほらね、やっぱりだ。
国民として、愛国者の一人として、人類として言うべきことを言う、そんな人なのである。自分の考えとは相容れない意見には耳も貸さず、いつも非寛容で、気に入らなければ中指をおっ立て、天皇陛下の写真を焼いて灰を踏みにじる。桐生悠々という人は、決してそんな人ではなかったのだ。
危険だと思うのは、こうした「言うべきことを言う」精神を、反骨精神と安易に捉え、「我が意を得たり」と持ち上げようとする気運である。
彼は、決して反骨でも反与党でもなかったと思うのだ。無理矢理与党にイチャモンを付けるような、現在の立憲民主党とはまったく違うのである。
いや、まあ、本当はほとんど知らないんだけど。
彼は、軍部に批判的な記事を書いたせいで、新聞社をクビになった。今の日本の記者たちは、それこそ毎日のように批判的な記事を書いているわけで、それでもクビになどならないのである。
忖度ニッポンと言うほどの事例はないのではないか。むしろメディアの人たちが見習わなければならないのは、「言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ」という姿勢である。
ぬるま湯のような環境で、「アベ政治を許さない」とお題目を唱え、へへへっと薄っぺらな笑みを浮かべているような連中に、桐生悠々はきっと怒っておられますよ。恥を知りなさいっ、と。
で、本当なら買って読んで、「ほら、やっぱりだ」とそれこそこの本を大いに嗤ってやりたいのだが、なにしろ金がない。とりあえず、今日のところは、このくらいにしといてやるのである。
ちなみに紹介文の最後に、「望月衣塑子さん推薦!」とあった。菅官房長官とコンビを組んで、お笑い質問会をやっている東京新聞の女性記者だ。
金ができても買うのはやめておこう、と私は心に誓った。